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祖父『大曽根 寛』の足跡を逐ふ

北の大地・最果ての海に賭けた故人の生前を偲んで開設しました
2005年1月13日〜


 



1. 生いたち

 私の祖父『大曽根 寛』は、1896年(明治29年)9月、宮城県の古川に3人兄弟の長男として生まれました。「雨ニモマケズ」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」などたくさんの名作を遺した宮沢賢治も、期せずして同じく1896年(明治29年)の8月生まれです。それ故に、寛が青年時代に抱いた夢や希望も、同期生の賢治の年譜と重ね合わすと、何か鮮やかに甦ってくるものを感じます。(賢治の年譜はこちら花巻市HomePageをどうぞ

 しかし賢治の年譜をお借りするまでもなく、我が家にも当時の貴重な資料の数々がありました。下図をご覧下さい。これは10歳の頃の寛が弟の良雄と撮った1枚の記念写真です。裏面には明治38年(1905年)4月6日などと記されています。明治38年(1905年)といえば、日露戦争の日本海海戦にロシア軍に圧勝してわき上がっていた頃、今年が2005年ですから、わずか100年、いや遙か100年前の頃にさかのぼります。

 20世紀は動く映像で記録が始まった世紀であることから別名「映像の世紀」とも呼ばれています。そのまさに黎明期の日本の田舎町、宮城県の古川で、どのようなカメラでどのようにして撮影されたのだろう、またどのような暮らしぶりであったのだろうなどと、この写真に見入ると想いは遙か100年前の頃へと巡ります。




2. 北の大地・最果ての海へ

 さて、祖父の寛は大曽根家の家督として育ちましたが、家業の表具・表装業には興味がわかなかったのでしょうか、旧制古川中学を卒業後は、無線電信講習所(現:電気通信大学)に学びました。そして就職先は地元へ戻って国有鉄道小牛田機関区、ところが地元での乗車業務にも飽き足りなかったようでした。

青函連絡船の甲板上で(右前列右端)


 明治38年のポーツマス条約締結後日本領土となった樺太(サハリン)や北の大地に惹かれる何かがあったのでしょうか。

 まもなく学んだ無線通信の技術を生かすべく、北の大地へと赴き、青函航路、さらには稚泊航路(稚内〜樺太の大泊を結ぶ航路)へと、最果ての海へ挑む人生を歩みだしたのでした。

 

 

昭和2年(31歳)の頃の身分証

祖父とその長男(=我が父)

昭和8年、祖父撮影による利尻富士


稚内〜大泊間を結ぶ鉄道連絡船航路=『稚泊航路』

祖父寛が稚泊航路にて乗船した砕氷船「宗谷丸3,600トン」 
稚泊鉄道連絡船航路小史サイトで提供の画像資料より


流氷マップ

 この流氷マップが示すように、冬季の宗谷海峡には流氷の猛威があり、樺太側の大泊港では、冬季に張り詰める氷盤の厚さは1m程にもなって、連絡船はかなりの沖合に氷泊。そのため陸岸の待合所までの徒歩やソリを使った乗降には、寒さの猛威も加わり、非常に厳しいものがあって、祖父はその任務のつらさ・切なさを、子どもたちに語っていたとのことです。

 この写真には祖父の直筆にて「亜庭丸と流氷(昭和14年2月10日)」と記されています。当時の稚泊鉄道連絡船航路を記した文書資料(*)によれば、大寒波の襲来によって、砕氷貨客船「亜庭丸(3,300トン)」が厚さ2mほどもの流氷の壁に阻まれ、湾内にて23日間もの間、進退不能となった際の様子を祖父が撮影したものだっということがわかりました。  

*詳細は
こちら稚泊鉄道連絡船航路小史サイトをご訪問下さい
 
 以上、祖父の宗谷丸乗船はどのようなものだったか、どのような厳しさがあったかは、短い言葉で語り尽くせるものではありませんが、このような北の海の猛威に加えて、第二次世界大戦の戦火の到来、さらにはソ連軍侵攻による稚泊航路の消滅と終戦というように、祖父の生涯はロマンと苦難が常にうねり交錯しあうものだったようです。

昭和24年1月に稚内在住の寛から,弟の良雄に宛てて送られた葉書
当時のご苦労が偲ばれる貴重な資料です


 そして祖父は終戦前の頃から高血圧症を患い、昭和23年運輸事務官を退職、昭和25年稚内の地にて、ふるさと宮城へ帰ることなく53余年の生涯を閉じました。


3. 追悼アルバム『ログイン』

 一度もお会いしたことのない祖父だけに故人の生涯が偲ばれ、また貴重なアルバム資料が家宝の一つとして保存してあったので、このような追悼サイトの開設に至りました。


追悼アルバム
ログイン

 お粗末ですが、少しでも多くのご縁の方々に、故人の生涯を偲んでいただければ『孫代表の1人として』何よりの喜びです。
 

以上ここ迄の最終更新日
2006年12月29日



4.『父・寛の思い出』



父・寛の思い出
寛の三男,徳夫おじさんご提供。
2007年2月17日〜

写真について 1942(S17)年に稚内にて撮影のもの
後列左から、、長女(17)、寛(当時46)、長男(20)、甥(17)
前列左から、妻(37)、四女、寛の父(70)、三女、三男(12)、次女(15)





5.その後・・・

2008年夏,休暇を利用して,はじめて稚内へ旅することができました。

とても親しみのわく街並みでした。貴重な資料や写真も揃いましたが,その後はあいにく手つかずのままです。
それでも稚内の今が気になって過ごしているうちに素晴らしいライブカメラサイトを発見しましたので紹介します。

稚内

 稚内百年記念塔に設置されたSTV パノラマカメラの映像です。
今の稚内の様子を一目で見渡すことができます。

ふだんは東向きですが向きを変えて,
次のように夕日に映える利尻富士を映し出していることもあります。




そして2009年1月,徳夫おじさん。祝ご発刊『傘寿の人生アルバム』

 手にしてみると、父『寛』のことや、少年時代を過ごした稚内での思い出なども綴られており、
すぐに仏前へ供え,何ともいえない深い感慨を味わいました。

2009年1月7日


幻の稚内桟橋駅に関する新聞記事〜資料を頂きました。

写真をクリックすると拡大画像にリンクしてご覧いただけます。 

円柱70本の北防波堤ドーム。その昔,良一と徳夫の兄弟は,このドームの上に登って遊んだとのことです。
流氷が接岸したドーム周辺の氷原を良一はスキーで駆け回り,
『落ちたらどうなんの!』と母さんにひどくしかられたらしいです。


そのような当時の北防波堤の様子が偲ばれる貴重な資料です。

2009年2月1日





2005年1月13日 〜